第3章【中編】:血迷った右手と、自作への決意
四、狂乱の指標発表と、連打されたショートボタン
2021年2月中旬、木曜日の夜。
冬の冷え切った夜気が書斎の窓ガラスを白く曇らせていた。 デスクのモニターには、ドル円の1分足チャートが映し出されていた。
アメリカの主要経済指標が発表された瞬間、ローソク足はまるで生き物のように跳ね上がり、垂直に近い大陽線を画面いっぱいに突き立てた。
「上がった……! ここは短期的な過熱感が出すぎている。テクニカル的にも分厚い壁があるはずだ。急騰した相場は必ず戻す! 少しだけ刈り取って、すぐに勝ち逃げだ!」
私はマウスの左ボタンに指をかけ、成行でショート(売り)を叩き込んだ。 これが、すべての悪夢の始まりだった。
エントリーした直後、価格は一瞬だけ数ピップス下がった。 「ほら見ろ、やっぱり俺の読み通りだ!」 そのわずかな含み益を見て、脳内に強烈なドーパミンが駆け巡る。 「あと5pipsだけ取る! 読み通りだ!」
しかし、次の瞬間、大口投資家のさらなる追撃買いが入り、相場は私のショートポジションを置き去りにして再びロケットのように急上昇を開始した。
「なっ……!? まだ伸びるのか!?」
含み損が一瞬でマイナス3万円、5万円と膨らんでいく。 本来なら、あらかじめ決めた損切りラインで機械的に切らなければならない局面だ。 だが、過去の爆損と同じ「悪魔の囁き」が、私の理性を完全に麻痺させた。
「こんな異常な上昇が長く続くわけがない。さらに高い位置でショートを打ち増せば、平均取得単価が引き上がって、わずかな反落で一気にプラスで逃げられる……!」
カチッ、カチッ、カチッ。
私は正気を失ったようにマウスをクリックし続けた。 0.1ロット、0.2ロット、0.5ロット……ロット数を狂気のように吊り上げながら、逆張りのナンピンを重ねていく。 画面右下のツールボックスには、赤字で膨れ上がる含み損のポジションがずらりと並んでいた。
五、魔の86万円ロスカット
深夜一時。 相場は反転するどころか、上昇トレンドの勢いをさらに加速させていた。
【含み損益:-520,000 円】
数字を見るたびに、胃の奥が雑巾を絞られるように激しく痛む。 呼吸が浅くなり、指先が氷のように冷たくなっていく。
「戻れ……頼むから戻ってくれ……!」
両手を握りしめ、画面に向かって祈り始めた。 テクニカル分析も、日足の環境認識も、資金管理のルールも、すべてが吹き飛んでいた。そこにいたのは、相場を相手に祈祷を捧げる、ただの哀れなギャンブラーだった。
午前二時すぎ。 証券会社からの「証拠金維持率低下アラート」の無機質なメール通知が、スマホの画面を次々と点滅させる。
口座残高を維持するため、私は震える手で追加入金(追証)を操作しようとした。 だが、その瞬間、相場はとどめの一撃となる深夜の急騰を見せた。
ピピッ、ピピッ、ピピッ——。
スピーカーから、耳を劈くような連続決済音が鳴り響いた。 証拠金維持率がロスカットラインを割り込み、システムが私のポジションを上から順に冷酷に強制決済していったのだ。
画面が静寂を取り戻したとき、取引履歴の最下部に刻まれていた数字。
【確定損失:-864,500 円】
「…………あ」
声すら出なかった。 86万円。 わずか数時間の暴走で、会社員の営業として何ヶ月も汗水垂らして稼いだ給与と貯蓄が一瞬で相場の藻屑となって消滅したのだ。
椅子から崩れ落ち、空が白み始めるまで、私は床の上に両膝をついたままの状態で呆然としていた。
そこからの数ヶ月間は、言葉を失うような暗黒の日々だった。 朝、鏡に映る自分の顔は生気がなく、取引先に笑顔を向ける時も、頭の片隅では後悔が渦巻いていた。 夜になっても眠れず、妻や子供たちの寝顔を見るたびに、「俺は何をやっているんだ……家族の未来を守るべき立場なのに、自分の愚かな欲のために金をドブに捨てたんだ」という強烈な自己嫌悪が、胸の奥をナイフでえぐるように痛ませた。
六、ノートを開いた夜 — 本当の目的への気づき —
あの日以来、私は絶望の底で、ただ漫然と仕事に向かう日々を数か月送っていた。いや、仕事すら手につかず、仮病で休んだ日もあった。そんな中、自宅でふと、リビングのテーブルで一冊の古いノートを見つけ、開いた。
そこには、過去の勉強メモや、相場に向き合い始めた頃の殴り書きが残されていた。
ページをめくりながら、私はハッとした。
「俺は何のために、相場でお金を増やそうとしていたんだ……?」
自分の快楽のためか? 「億り人」になって周囲に自慢するためか? 違う。絶対に違う。
汗水垂らして会社で働き、家族とささやかな日常を分かち合い、子どもたちがこれから迎える進学や未来の選択肢を金銭的な理由で諦めさせないため。 何年先になっても、家族が安心して暮らせる「土台」をしっかり耕し、守り抜くためじゃなかったのか。
それなのに、目先の爆益を狙い、自分の感情の迷いに振り回されて、大切な家族の未来を危うくするような無謀なトレードを繰り返していた。
「……バカだな、俺は」
ポロポロと涙がこぼれ、ノートの紙面を濡らした。 自分の愚かさに対する情けなさと、家族に対する深い申し訳なさが胸に満ち満ちていた。
その瞬間、私のなかの何かが音を立ててパキリと割れ、そして新しく組み替わった。
爆益を狙うギャンブルは、もう終わりだ。 一攫千金を夢見るような甘い幻想は、あの86万円と一緒にすべて焼き捨てよう。
大切なのは、勢いや運任せのトレードではない。 『何年先であっても、子供たちの学費や家族の生活費という人生の支出を完璧に計算し、嵐が来ても絶対に折れない堅牢な資金管理のもとで、作物を育てる土地をコツコツと耕すように資産を守り育てること』だ。
感情でトレードするから負ける。 なら、あらゆる歴史的ショックを耐え抜き、どんな相場が来ても破綻しない『絶対の防衛網』を持つシステムを、自分自身のこの手でプログラミングして創り上げればいい。
私は涙を拭い、ノートの新しいページに太く書き殴った。
『感情 ➔ 完全排除』
『一攫千金の聖杯ではない。家族の未来を守り抜く不沈艦を創る』
家族の未来を守り抜くための、孤独で、しかし確かな完全自作への覚醒が、ここから始まったのだ。